たまにはサッカーの話をするかな?
「最近のお前の話は美術や音楽ばかりだ」と友人に言われてしまったので、たまにはサッカーの話をしようかな?、とおもいます。 まずは、浦和レッズのアジアチャンピオン!おめでとうございます! (浦和はボクのルーツなので嬉しいです!) でも今年(も)Jリーグで強いのは、鹿島アントラーズと川崎フロンターレです。 思うに、このアントラーズとフロンターレの強さは、「指導者」の「教え」もしくは「薫陶」ではないでしょうか? アントラーズの基本理念はジーコが築いたものだし、フロンターレは、風間八宏という指導者の存在が大事だと思えるのですが、この二人とも「サッカーの本質を理解した指導者」であった、ということが、ボクは大事だと思うのです。「サッカーの本質を理解した」なんぞと、サッカーの専門家でもないボクが言うのは滑稽でしょうが、まぁ、そう、ツンケンせずに少しだけお付き合いくださいよ。 サッカーという競技は、「集団スポーツ」というカテゴリーの中で、最も選手個人の判断やプレーが重要な競技だと理解しています。要するに「選手の自由度が高い」もしくは、「自由を基本にした集団競技」で


狼を見に行く
晩秋の一日、運慶は見損ねたが、オオカミの石像を見に行くことにした。 何故オオカミなのか?を説明するのはメンドウなのだが、立体造形も仕事としておこなっている身としては、ちょっとでも気になる造形物は自分の目で「見ておきたい」のである。城峯神社の狛犬がオオカミであって、なかなかの造形物ではないか?と、思ったのは、友人のやっているレストランに置いてあった川の博物館「平成29年度特別展「神になったオオカミ~秩父山地のオオカミとお犬様信仰~」展のパンフレットで、この石像を見かけたからだった。 そのパンフによれば、この一対の石像(狛犬)は大正6年の制作だそうだ。 一説では、明治38年頃の記録を最後にニホンオオカミは、姿を消してしまっている。大正6年であれば、この像の制作者は自分の目でオオカミを見たことのある人であるかもしれないし、猟師が仕留めて剥製にしたものとか、その類いが身近かにあったのかもしれない。だが、まぁ、制作にあたって、心の中に刻まれた像がはっきり見えれば、石像は出来上がると思うので、これ以上余計な詮索はしない。 以前にこのブログで書いた花泉の唐獅子


10月の終わりに
先週の月曜日に左足を手術した。 「たいした手術ではない」と、医者に言われて安心し、全身麻酔し、手術を受けたのだが、実際には手術後に痛い目にあった。 毎日足が痛いのです。じんわりと、しかし、明らかに痛いのです。おかげで、この1週間あまり、寝たり起きたりの老人的日々。。 仕方がないので、本を読みました。 ❶網野義彦の「日本の歴史をよみなおす」は、日本史の中世(江戸以前)のイメージを覆す、というもので、なかなか面白かった。 杉浦日向子の著作によって、江戸時代のイメージが覆ったのが、今世紀の初め頃であった。(日向子さんの珠玉のマンガとエッセイ!)そして今回は、網野さんの研究・労作によって、中世日本のイメージが、「明瞭になった」という感じですね。 昔の多くの人は農民であった、というイメージは、間違いだったのだ!!海人、山人、坊さん、遊女、各種職人など雑多な生き様を生き生きと感じてみなくては!と、痛感したのだった。 要するに「工夫する人々」というイメージである。大きな流れに身を任せながら、その波の中で「工夫する人々」。 get up! stand up! s