狼を見に行く

 晩秋の一日、運慶は見損ねたが、オオカミの石像を見に行くことにした。

何故オオカミなのか?を説明するのはメンドウなのだが、立体造形も仕事としておこなっている身としては、ちょっとでも気になる造形物は自分の目で「見ておきたい」のである。城峯神社の狛犬がオオカミであって、なかなかの造形物ではないか?と、思ったのは、友人のやっているレストランに置いてあった川の博物館「平成29年度特別展「神になったオオカミ~秩父山地のオオカミとお犬様信仰~」展のパンフレットで、この石像を見かけたからだった。

 そのパンフによれば、この一対の石像(狛犬)は大正6年の制作だそうだ。

 一説では、明治38年頃の記録を最後にニホンオオカミは、姿を消してしまっている。大正6年であれば、この像の制作者は自分の目でオオカミを見たことのある人であるかもしれないし、猟師が仕留めて剥製にしたものとか、その類いが身近かにあったのかもしれない。だが、まぁ、制作にあたって、心の中に刻まれた像がはっきり見えれば、石像は出来上がると思うので、これ以上余計な詮索はしない。

 以前にこのブログで書いた花泉の唐獅子は、左官職人の手に依る漆喰造形だったが、このオオカミは、やはり石工(いしく)という職人の仕事であるだろう。

 ボクにはなんだか、この国の一番いい時というのは、こういった職人がきわめて高い技術と自由な心を持っていた時ではなかっただろうか?と思えてならないのだ。

 普通の狛犬(獅子?)なら、お手本はいくらでもあろうが、オオカミの狛犬など、お手本は少ないだろう。また、先のパンフをザザッと見ただけで検証はしていないが、オオカミの造形はどれも個性的な感じがする。この「個性的」ということは、ボクには、とっても気になることなのである。

 依頼を受けた職人、あるいは、作るぞと決めた人間が、お手本がないところで、どのように想像力を働かせるのか?何体も何体も作っている人なら自然に「型」も出来上がるだろうが、もしも生涯でこの一対しかオオカミを手がけていないならば、さて、、、などなど、ボクにはこのようなものを見るのが楽しくてしょうがないのだ。

 さて、最後にちょっと恥ずかしいけれど、向かって右側のオオカミとボクの奥さんのツーショットです。奥さんも笑っているが、オオカミもわずかに笑っているかに見える。

 オオカミ信仰とか言ってもかなり素朴なものであり、親しみが基本にある。芸術とか、信仰という観点ではなく、作者の心の中を見よう、というふうに造形物に接してみると、いろいろ面白いものが見えてくるのではないか?と、思うのだ。

 このブログでは、もはや難しいことは書かない。ただ、「気になる」とか、そういうことを大事に、そして「見る」ということを常に鍛えていないと、美術やら文化に関わる仕事はできない。これは「あったりまえ」のことなのだ。

 これから先、この国の人口はジェットコースターの下りのように減る。そうすると、山が人を押し戻し、こんな辺鄙なところの神社には、人の手が入らなくなっていくだろう。文化程度の低い今の時代の手は入らない方がいいだろうが、朽ち果てる前に見ておく方がいいかもしれない。

(「狼を見に行く」は、シリーズ化するかもしれません。笑。)

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