アクリル彫刻は、彫刻なのか?
今年はアクリルの塊に向かう日が多い。うまく進んでいるとは言えず、止まったり進んだりなのだが、「重さ」の点では、これまでで一番重い塊に立ち向かっているかもしれない。仕上がり予想重量が1トンのもある。重量物なので、一人では危険な作業でもあり、若い友人や仲間の応援を受けつつやっている。
だが、やっていると、これは彫刻と言えるのか?判らなくなる。透明のモノを透明もしくは半透明に扱うので、立体でありながら立体ではないような感覚になる。実際にはクッソ重いのに、その存在感が軽いのだ。いや、軽いというより、「モノではない」ようなのだ。あるいは、外側を削っているのに、中を掘っているような錯覚、つまり中の空間をつくっているかのように思えたりする。
小さいモノより余計にそう感じるのは何故なんだろう?
下の写真は仕事としては成立しなかったモノなのだが、取り組んでいる間は、やっていて面白かった。そして、これが心底大事なのだが、こういうヤツに取り組んでいる期間、世界がと〜〜てもキレイに思えるのだ。完成を見ずに壊すが、心にはしっかり残ったし、可能性をたくさん感じる。いつか、必ず「ものにして」みたいと思う。
まぁ、誤解を恐れずに言えば、ボクは「モノ」を作っているようで、「モノ」は実はどうでもよい。大事なのは、「見えてくる世界」なのであって、そして、そいつは時折「しかと」見えるにしても、煙か霞のようで、物体とは言いがたい。
(やはり誤解は困るので、付け加えると、アートワーカーとして、「使用されるアート物件」を作るボクらの場合、仕上がった物体は、物体の宿命で、出来た瞬間から劣化し、もしくはホコリに埋まっていく。だが、そのアート物体からは、本来「違う世界」が見えるはず、なのであって、そのように見ていただけない場合は、まったくただの物品もしくはゴミなのだ。)
このように「世界がキレイに見える」ような事は、アクリル彫刻だけではなく、色彩を使用した絵画の制作過程でも、土の空間造形制作中でも、その他仕事中に、実に頻繁に起こる。
これは、幻なのだろうか?
経済を考えると息苦しくなるときもあるが、このように充実してモノに向かう事が出来ていて、かけがえのない時間の累積を体験すると、困った事に「ヤミツキ」になる。その繰り返しで、気が付いたらジジィに近くなってしまった、ということなのだなぁ。
話がだいぶそれてしまったが、この透明な物体に挑む日々は、これからも数ヶ月続く。と言うか、ようやく、本格化する。
せっかくなので、しばらく楽しませてもらおう。
体力は落ちてきたし、気力もいつもいつもバリバリではない。老化のため、脳味噌もかなりイイカゲンになってきた。いつまでこんな事をできるのか、判らない。でも、与えられた機会は大事にしたい。そして、「世界がとってもキレイに見えるとき」を積み重ねていきたいものだ。